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2018/03/15 17:21

同朋舎新社では「平安・鎌倉時代の重要文化財「別尊曼荼羅」を保護し、未来に伝える図像集『密教図像集』刊行!」のクラウドファンディングを実施していますが、この場をお借りして、仏教や曼荼羅を理解するのは難しいと感じる方々も多いことと思いますが、身近でわかりやすく、ご紹介していきます。

今回ご紹介する「曼荼羅のほとけさま」シリーズ第3弾は「観音像」です。

曼荼羅集には「聖観音」「千手観音」が掲載されていますが、”観音像”はとても身近で、古くから信仰の対象とされてきたものです。


■観音信仰の歴史

観音信仰は古く、日本に仏教が伝来したころに伝えられました。聖徳太子は、法隆寺に夢堂を建立し、ご自身と等身の救世観音を奉安され、日本を大陸の国に比しても立派な高い国にするために、夢堂に入堂され(観音)菩薩の示顕を仰いで国策を立て、政治を行ったと伝えられています。 さらにその後の観音信仰の広がりは、全国に64の国分寺が建立され、国の安寧と国民の平穏を祈る観音信仰がそこから各地へと広まっていきます


(*現在も人気の各地の国分寺。写真は初夏の蓮の華のころが見事​な信濃国分寺

■浅草寺の由来

推古天皇の代、都から武蔵の国に移り住んで、浅草村に居を構え、細々と漁撈を生業とする3兄弟が暮らしていた。その日も近くの隅田川に網を投げていると、魚は入らず代わりに朽ち木が引き上げられた。朽ち木を草むらに放置して翌日近くを通ると、そこには燦然と輝く観音菩薩がありました。 早速3兄弟は仮屋を建て観音像をお祀りしたことで、これが浅草観音、浅草寺の始まりとなりました。本尊は聖観音菩薩(秘仏)。

後に3兄弟は三社権現と崇められ、浅草神社(三社)が祀られる。江戸時代になって、徳川家康が浅草寺を江戸の祈願所と定めたことによって、観音霊場として多くの参詣者を集め信仰や観光の中心となりました。浅草神社は、明治2年の神仏分離令の前まで、浅草寺に祀られていたが、現在は浅草寺と離れています。

浅草寺の聖観音像を安置する本堂(観音堂)は、上段の間と下段の間に分かれ、下段には前立本尊の観音像、上段に秘仏本尊像が安置されている。秘仏は12月に特別開扉法要が行われるが、お前立本尊のみで、秘仏本尊は公開(これまで一度も公開はない)されることはありません。 境内には、影向堂(ようこうどう)の観音菩薩や、露座を含め観音像や石碑など観音信仰の中心に相応しい相に接することが出来ます。



現代の賑わい

全国数百の観音霊場のなかでも、著名な<西国三十三霊場><坂東三十三霊場><秩父三十四札所>などは天下の観音百霊場として整備され、ガイドブックも作られ、多くの人々による霊場巡りブームがわき起こるなど、庶民の信仰心が娯楽と結びついて観音の信仰は他の釈迦信仰、阿弥陀信仰を引き離す人気を博すようになりました。

現在でも信仰の枠を超えた人気の気配は衰えず、浅草寺や仲店の賑わいの中に入ると、日本人のみならず海外の観光客を巻き込んだKAN’NON-SAMA人気の多国籍化さえ感じられます。


弊社のクラウドファンディング平安・鎌倉時代の重要文化財「別尊曼荼羅」を保護し、未来に伝える図像集刊行!活動報告より転載(2018年3月15日公開記事